Text_Viola Kimura
今回のゲストは、丸の内ハウスの人気店RIGOLETTO WINE AND BARを手がけるHUGE(ヒュージ)の新川義弘氏。約20年丸の内を見つめ続け、今では店舗を拠点に地域の活性化に情熱を注ぐ、丸の内ハウスの重要人物のひとりだ。彼が牽引するHUGEは国内に23のレストランを構え、活気溢れる店舗展開で人々を魅了している。その空間とサービスは、彼自身の顧客への愛情を感じさせるものだ。東日本大震災の際は、仙台の店舗を中心に常識はずれのキャンペーンで話題を呼んだ。そんな彼は、どんな思いで飲食業に向き合っているのか。あれから4年半が経った今、彼の活動の原点とも言える丸の内の店舗で話を聞いた。
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新川さんは長年丸の内に携わっていらっしゃいます。今、この街をどのように見ていますか。
「どんどんいい街になっていますね。僕なりに古き良き丸の内を見てきましたが、15年ほど前に丸の内を見た時、飲食業の一従業員だった僕にとっては、とても縁遠い印象でした。週末は誰もいない、ホワイトカラーの街。そういうときに見た丸の内は、「グレー」。街行く人が着ているお洋服も白か黒かグレー。空の色までグレーに映りました。それが今、色鮮やかに見えるようになった。それはただ店舗が増えたからというわけではなく、丸の内をつくっていく人たちに、丸の内を大事に育てていく、という思いがあるからなのだと思います。その結果、今丸の内に働きに来たり、遊びにくる人たちが、この街に愛着を感じているのがわかります。丸の内で働いている人たちが週末に家族を連れてやってきていますね。ショッピングを楽しんだり、思い思いの時間を過ごしています。自分たちが働いているところに家族と来るって、よっぽど大切に思っていたり、魅力があるからなのだと思います。職場が丸の内ではないのに遊びに来ている人たちもいますよね」
そんななか、丸の内ハウスでご自身のお店を手がけられたわけですが。
「丸の内に、これまでになかった「ハウス(家)」をつくるというコンセプトを聞いて、これはやってみたい! と思ったんです。仕事場しかない街に、これまでになかった家のような空間をつくるなんてわくわくしました。ここのプロジェクトは、互いを高め合うようなチームと一緒に手がけることができて、そんな仲間たちとつくることができたという意味でも、丸の内には思い入れが深いです。
丸の内ハウスをめがけてくるひとが増えましたね。遊んで何かを得たくてやってくる。街には目的が明確な場所だけでなく色々な楽しみ方があるところも必要ですよね。色気や怪しさがあって、どきどきわくわくするような場所。そういう点ではこの丸の内ハウスがこの街で果たした役割は大きかったと思います。
一番の丸の内ハウスの貢献は、深夜を切り開いたことだと思います。暗闇だったところに明かりを灯したのです」
東日本大震災の際に、仙台の店舗で価格を大幅に下げるというキャンペーンを打っていらっしゃいました。飲食という売上げにシビアな業態での大胆な決断。世の反響を集めました。
「当時は誰もがさまざまな思いを交錯させていて、目の前の生活、そして社会をどうしていけばよいのか、混乱している状態でした。僕自身も経営的立場にありながら大きな打撃を受けて、はじめて運転資金のために頭を下げてお金を借りました。従業員に給料が払えなかったんです。この借金がなければ会社は終わっていましたね。それだけ震災の影響は本当に大きいものでした。
とにかく従業員を守り続けるには売上げを立てなければいけない。震災から数日以内に打った「おかえりなさいキャンペーン」は、そんな状況下で始めた取り組みでした。
震災翌日の仙台は、ライフラインが全く機能していませんでした。お店にはピザ釜と薪があったので、パンを焼き、スープを温めて、ひとつ100円で配りました。あの駅前に、500人以上の列ができました。スタッフも避難所から通っていましたが、冷凍庫に魚介などが残ってたのでそれを使って毎日料理をして、あの時の彼らには感謝しています。仙台のお店はガスも通っていないのに毎日お客さんが並んでリスタートが一番早かった。IHコンロを使って出来ることを最大限にやりました。
そして、丸の内から何ができるかを必死に考えました。当時、東京は自粛ムードが高まって、大手の企業は領収書が切れない、制服で酒を飲むな、仕事帰りに酒を飲むな、という風潮。そんななか、“消費こそが社会を活性化するのに”と考えていて。とにかく元気な人だけでも消費しよう!という風に思い、キャンペーンを打つことにしたんです。
一番ダメージのあった仙台から東京の店まで、全店舗で全ての注文を30%割引しました。僕らはそれまで割引なんてしたことがありませんでしたが、ものすごいインパクトがあって、大変多くのお客さまがご来店。新丸ビル店にも、うなるようにお客さまがいました。やっと開けてくれたか、という反応で。レストランが世に何を提供すべきなのか、改めて考えさせられる出来事でした。このキャンペーンに踏み切ったことは、僕の中でも大きな人生の節目だったと感じています」